「壁のむこうへ」著者 スティーブン・ショア氏講演会 “自閉症スペクトラム ―内側と外側から見たその世界―” |
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2005年1月27日(木) 10:00~12:00
武蔵野東学園本館 |
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スティーブン・ショア氏講演会内容 コンニチハ、オハヨウ。 おはようございます。武蔵野東学園に来ることができ、とてもうれしく思っています。今日お越しの皆様は、私も含めてみんな自閉という世界(コミュニティー)に関わっている方々だと思います。自閉の世界(コミュニティー)には、保護者の方、家族、先生、医者、他の専門家、自閉症の本人が含まれます。自閉の世界へは、私は、喩えとしまして「自閉の龍によって引き込まれる」と言っています。その龍が火を吹くと、言語が後退し、かんしゃく、引きこもり、自虐行為、くるくるまわるなどの行動、自傷などの症状が表れます。
重要なことは、感覚統合であるとか、五感のバランスです。感覚は外側の感覚、内側の感覚に分けられます。視覚、触覚、味覚、嗅覚、聴覚が外部感覚です。内部の感覚は、前庭覚と固有受容覚です。前庭覚は内耳で、バランスを司る感覚です。固有受容覚は、筋肉や関節からのバランスの感覚です。体の部分が今どこにどうなっており、どのような状態で何に触ったらどのような感覚になるか、という指令を与える、例えばどれくらいの力でペットボトルを持てば、クシャッとつぶれないか、どれくらい手をのばせば物がもてるか、そういったことを命令する感覚と言えばいいと思います。ですから、自閉は感覚のバランスがくずれているのです。周囲からの情報が多すぎて混乱する、あるいは少なすぎる、つまりバランスがくずれているといえます。 例えば、友人が図書館へ行きました。彼女は目がチカチカしていたたまれなくなり、自分から「図書館へはもう行かない」と決めました。実は、蛍光灯がチカチカしていやだったわけです。彼女は自分のことを主張することができましたが、8才の言葉のない子は言えません。例えば学校で、算数を勉強しなくてはならないし、先生の言うことを聞かなくてはならない状況では、言葉で表現できません。この場合は、急に電気を消してしまうという行動をとるかもしれません。このような行動は、「問題ある行動」ととらえられます。しかし、このような問題行動というものこそ、頭の中のバランスがとれていないことからくる行動といえます。 こういった自閉症の子どもと過ごす人達は、子どもの環境がどのようなものか、要素を一つずつ探って対処しなくてはなりません。自閉症の子どもは散髪を嫌がることが多いようです。バリカンやはさみの音がいやなこともあるでしょう。1本1本髪を引っ張られる感覚、私もとてもいやでした。髪の毛が頭皮から引っ張られるように感じました。小さいときにはかなり長い間、父にキスするのがいやでした。コーヒーのにおいとひげのザラザラした感触が耐えられませんでした。音に関しては、自閉症の人は複数の音を聞いたときに、重要な音をひろって、それ以外の音は、後ろの方にもっていくことができずに、全部均等に受け取って聞こえてしまいます。例えば、私の妻は、ハープの練習をしますと目覚まし時計のタイマーをかけるのですが、私はその音がいやでクッションの下にすぐ隠してしまいます。妻が時計をさがしてよく怒っています。私は「クッションの下にあるよ。だれだってうるさいから隠すよ」と言っています。 内側の感覚について話をします。前庭覚の刺激の少ない子どもは、くるくる回っていたり、ジェットコースターに一日中乗りたがったりします。逆に刺激の多すぎる場合は、あとずさりがうまくできません。固有受容覚に問題がある場合は、分厚いマットや布団にくるまれるのを好むことがあります。私は、飛行機がとても好きです。飛行機が離陸するときの背中にかかる重力の感覚が好きなのです。飛行機の翼が乱気流にあって上下する、飛行機が自閉症なのかもしれませんが、そのグラグラする感覚も大好きです。自閉症の子どもたちは、このような感覚のアンバラスを感じているのに、勇敢にも毎日対処しているわけです。私は、ボストン東スクールを訪問することがあるのですが、その教育に感動しています。体育や体を動かすことは、子どもの助けになるすばらしいものだと思っています。 自己刺激行動に目をむけてみます。自己刺激は、ひとつは反復行動、機能的でない行動を繰り返すといわれます。椅子に座ってじっと座らなければならない場合、自閉症の人は髪の毛をいじったり、顔をひっかいたり、ペンでいたずら書きをしたり、足を上下に動かしたりします。この行動はよく見られる行動です。意味のない反復行動です。人間は椅子にじっと座っているようにはできていないと思います。自分を覚醒しておくためにいろいろいじったりするわけです。つまり、集中を維持するために行う調節行動なのです。人によっては興奮を静めているかもしれません。自閉症の子どもは、手をヒラヒラしたり、目の前で手を動かしたりすることで、自分の脳を調節している、行動を調節していると考えられます。普通の大人は社会的に受け入れやすい自己刺激行動をとっています。でも、教室で手をヒラヒラさせると先生や他の子どもの迷惑になります。こんな場合、東スクールでは他のことに集中させようとします。例えば、笛のリコーダーを持たせて手を動かないようにさせていました。これはとてもいいやり方だと思います。
私の母は、科学的な側面、ミラーのいう zone of intention 意識の帯について気づいていました。一般の人は意識の帯は非常に広いのですが、例えばこの講堂の一番後ろの人でもステージの上の私たちを、真ん中の間にあるものに作用されないで見ることができるわけですが、自閉症の人は意識の帯が非常に狭く、うまく見ることができません。遠くから「ごはんよ」と呼ばれるだけではわかりませんが、近寄って肩に触られてやっとわかる、そういう違いです。 4才のころ、私は再び話ができるようになりました。その時はじめて以前に拒絶された学校に入学することができました。再評価では神経症という診断を受けました。私はそのころ時計のねじなどにとても興味があり、時計をばらしてまた元に戻したりするのが好きでした。私は手先が器用でしたが、自閉症の人は不器用な人が多いようです。だんだん年をとってくると、気持ちや考えを表現するのに紙面よりパソコンのほうがよくなりました。時計をばらしていろいろなものをみてみることと、コンピューターには共通点があることに気づきました。非常に体系的である、いつも決まっているということです。時計もコンピューターもいつも同じで、コンピューターは、キーを強く叩こうが優しく叩こうがいつも同じ文字がでてきます。安心感があるということです。神経のバランスが必要になってくることが、むずかしさを感じることなのです。大切なことは、自閉症の人は、長所があったら必ずそれを伸ばすことです。初期にはただ好きなだけかもしれませんが、将来的には実となりますし、充実した人生を送ることができるようになります。 6才のとき公立の幼稚園に入りました。対人的にも勉強面でも大失敗でした。アメリカでは障害があったり変わったりしているといじめにあいます。先生もどのように教えてよいかわかりませんでした。ですから、私は学校で勉強するより、好きな本、星や生物、科学の本を夢中になって読んでいました。そこから学ぶほうが大きかったといえます。先生はどうやって教えていいかわかりませんでしたが、私は特に問題行動はなかったので放っておいてくれました。 次に、disclosure、公表、開示ということについて話します。これには、自分から公表するということと、他から言われるということがあります。私は、私だけどうして特殊教育のクラスに行くのか、専門家やセラピストに会うのはなぜかということが疑問になってきました。このころは、親がそれを子どもに話してあげる、あなたにはこんな問題がある強みがある、あなたはその強みを使って充実した人生が送れるということを話してあげる時期だと思います。このように症状や健康状態、特徴を公表することによってある意味では自閉という烙印を除去することができると思います。 8才の時に、算数の勉強を教わりました。私は机に星の本などを積み重ねていたのでしたが、先生には不思議に思えたことでしょう。本から大学レベルのことを学んでいました。先生方が認識しなくてはならないのは、それぞれの子どもの関心や興味です。もちろんどんな人でも関心があるものはよくできます。自閉症の人はもっとその度合いが強いといえます。アントニーアイバスというアスペルガー症候群の研究者は、興味の強いことをやることがとても有効だと書いています。自閉症の子どもを教えるときには、特別な興味をパワーとして、教育するのが大切だと思います。子どもの頃からの私の興味の対象をリストアップしました。未だに興味のあるものも、興味が消えてしまったものもあります。 10才になると頭から離れないことがありました。eと言う文字です。一番最後がeで終わる動詞にingをつけるとeが消えてしまうことが、どうしても気にくわない、耐えられないことがありました。また、ある友達がピザが食べたい時に、「ぼくはピザって感じ」と言ったので、私は「君はぜんぜんピザに似ていない!」と言って怒ってしまったということがありました。このように文字通りに理解してしまうというのも自閉症の特徴のひとつです。通常は理解に苦しむところですが、ブレンダ・マイルズのhidden隠されたカリキュラムで、みんな知っているけれど口にはしないことが理解できないということです。 ひとつ例があります。あるアスペルガー症候群の人が、制限速度55マイルの道路を38マイルで車を運転していました。警察官が、あまりに遅く運転していたので、その人に「横に寄りなさい」と合図をしました。普通の場合は、道の路肩に停車するのですが、この人は中央分離帯に止めてしまったということがありました。警察官は、のろのろ運転だったので、酔っぱらい運転かと疑ったわけですが、飲酒は全くしていなかったのです。アメリカではアスペルガー症候群の人はカードをポケットに入れています。「私はアスペルガー症候群です。私は危険人物ではありません。静かな場所に移動させて下さい。または、父に連絡して下さい。連絡先は~です」というものです。この車の例は、誰もが暗黙のうちに知っているルールを自閉症の人は理解できないということを表しています。 私は13才で中学に入りました。通常では複雑な時期ですが、私にとっては楽になってきた時期でした。コミュニケーションができるようになったことと、先生も成績で評価してくれたからです。私は音楽にとても興味がありましたので、音楽を通してバンドなどやコミュニティーの人とも接することができるようになりました。自閉症の子どもに楽器を教えるのは、とてもよいことだと考えています。子ども自身が楽しめると同時に、社交の機会もできるし、コミュニティーでバンドなどに入って交流もできるからです。 私は、19才で大学に入りました。友人も増え、自転車を夜中に乗り回し、夜中に自転車を乗り回すのが好きな仲間ともつきあえるようになりました。またデートもするようになりました。普通と感じ方がちがう、合図などが理解できない、微妙な相手の兆しがわからないなど、結構難しいものでした。そのころ、幸運にも妻に会いました。結婚して15年になります。 自閉症の研究はまだ歴史が浅く60年くらいで、日本でも特殊教育の法律が通過したばかりと聞いています。武蔵野東学園や他の学校にも多くの自閉症の子どもたちがいますが、いずれは社会に出ることになります。今は、保護者や先生、専門家によってニーズが満たされていたとしても、社会に出た場合には、自分で自分のニーズを満たす、自分を擁護するということが必要になってきます。子どもから成人になって、助けてもらう段階から自分でニーズを主張して擁護するという段階になる時が課題になってきます。求めていることが相手にわかってもらえるにはどうすればいいのだろうか、どのようにアプローチしたらいいのか、相互理解、充実感とか、どのように生産性を高めるかということを自分で考えなくてはならなくなります。 自分が自閉症であることを知って、公表し、主張し、擁護する時には、自分がそうであることを示さなくてはなりません。示すことでリスクが生じてきます。相手がわかってくれるのだろうかというリスクです。例えば、自閉症の人が職場で働いていて、蛍光灯の光で目がチカチカしたとします。上司に自分のニーズを主張して蛍光灯を変えてもらう、それが自己擁護なのです。 では、なぜ目がチカチカするのか、そこで自閉症だからということまで言わなくてもいいのではないかと思います。自己擁護と公表ということには、複雑な点があります。いつどこでだれにどこまで伝えるかということです。言ったほうがいいのか、そこまで言う必要があるのかということがあります。私の2冊目の本 「Ask and Tell」 という本、これはおそらく6ヶ月先には日本語に訳されて出版されると思いますが、その中で私は6人の自閉症の方に寄稿してもらっています。この本は自己擁護と公表ということに的を絞った本で、自閉の人たちが、どのような形で自分を出して自分を擁護すればいいのかについておさめたのがこの本です。 なぜこういうことを考えるかというと、現代の人々は毎日いつも忙しく、自分たちとちょっと違う人を気にかける暇がない、いじわるや見くだしているわけではないのですが、ただ忙しく余裕がないのです。だから、自分自身がこうで、こういうニーズがあることを人々に理解してもらうということを考えて、この本を書きました。 現在では多くの自閉のお子さんたちが、大学に行っています。そして、どのように支援できるかを考えています。両親、友人、学校、専門家などから支援があってはじめて充実した大学生活が送れるのです。この人たちを支援することは、あとで何倍にもなって戻ってきます。彼らが、できる限り自立して、職業を持ち、社会への貢献をすることができるのですから。
では、ここで自閉症であるということは、どういうことなのかについて考えてみたいと思います。普通の人はあたりまえに感じることがわからない、できないのです。まず、話すという行動ですが、2つ課題が含まれています。その複数の行動が同時にできるということが必要です。例えば、歩きながら人と話すということを考えてみます。このような複数のことを同時に行うことを、普通の人は、何の問題もなく自動的に行っているわけです。話すことがメインで、話すことに集中できるというのが一般的です。つまり、複数の行動があったときに一つに集中して、他のことは無意識に自動的に行うことができるということです。どうしても集中しなければならないことは、例えば、初めて自動車を運転することです。音楽を聴きながらなんてことは出来ないわけです。 次に同時行動をリストアップしてみました。皆さんも私の話をメモを取りながら聞いていらっしゃいます。言葉でない非言語的な合図をぱっと解読できる、これもいくつかの行動を同時にしていることになります。自閉症の人にとっては、ひとつひとつが同じ重要性をもって入ってきます。だから、多くの自閉症の人にとって聞きながらメモをとるのは難しいわけです。視線を合わせながら話をすることもそうです。ひとつひとつの認知行動に集中してしまうので、ながらということは大変むずかしくなります。合図に関しても同じです。私は、大学のとき、人の合図がわからず、ボディランゲージの本などから、自分用の辞書のようなものを作った経験があります。非言語的行動はとてもわかりにくいものなのです。 これは、ちょうど新しい文章を考えながら、同時に「し」という音を言わないようにするというようなものです。「おかしを食べました」が、「おか_を食べま_た」となるわけです。そういう文章を言いなさいと言われると、一般の人でもとても難しいものです。自閉症の皆さんが一般の人の非言語的行動を理解することは、いつもちょうどそんな感じだということがわかっていただければと思います。 本日はおいで下さいまして、ありがとうございます。招待下さった武蔵野東学園、お越しの方々、保護者、先生、専門家の方など、自閉症の教育に情熱を込めてあたっておられる全ての皆様に感謝して、私の話を終わられていただきます。 アリガトウ! (この講演の内容は、スティーブン・ショア氏ご本人の許可を得て掲載しております) (この講演は「平成16年度 科学技術振興調整費:障害者の安全で快適な生活の支援技術の開発」研究による招聘中に行われたものです。) 武蔵野東教育センター |
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スティーブン・ショア氏 プロフィール
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