創立の母 北原キヨの歩んだ道

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生い立ち

 北原キヨは、大正14424日、現在の栃木県日光市清滝町に永長家の8人兄弟姉妹の3女として産声をあげた。「キヨ」の名は、土地の「清滝」にちなんでつけられた。
 兄弟姉妹の中では、最も強く父親の影響を受けている。上に男の子がいなかったこともあって、父から男の子に対するような期待をかけられて育ち、強い責任感と根気強さを身につけた。その気丈さから、風邪などで熱が高くて体がフラフラしていても学校を休まず、6年間の皆勤賞を得た。父は古川電工の日光電機精銅所に検査技師として働き、無口でおとなしい人であったが、洋書などもよく読み、俳句は芭蕉の10代目を継ぐ、当時としてはかなりの文化人であった。
 一方、母が病弱であったために、キヨは母にかわって朝は早く起きて食事の用意をしたり、弟妹たちの世話をよくしていた。

 

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教師としての出発

 小学校高等科を卒業するとすぐに、母校の栃木県上都賀郡日光第二尋常高等小学校(現在の日光市立清滝小学校)に勤務するようになった。それから独学で教員検定試験に挑戦、昭和1612月に全国最年少の16歳で合格、よく17年からは本採用となった。
 しかし、師範学校卒業の先生方のように系統的に教え方を勉強したわけではなく、はじめはどんな風に教えたらよいかを先輩にしばしば尋ねた。また、廊下を歩くときには隣の教室の黒板の文字をのぞいたり、隣の教室の授業が終わるのを待って、そこの子どものノートを大急ぎで見せてもらうなどして、教え方の研究をした。
 また、子どもを教科書として子どもから学んだが、キヨの「子どもから学ぶ」教育哲学は、当時の母校の校長星野理一郎先生から受け継いだものである。
 郷里日光で教師をしていたのは25歳ごろまでだったが、この間に吸収し身につけたことは大変多く、かつ密度の濃いものであった。

 

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上京して

 「太平洋戦争」から終戦、戦後の混乱期という激動の10年間を、日光で教師として過ごしたが、この間に尊敬する恩師達の辞職、アメリカからの新しい教育思想や方法の上陸、免許状の書き換えなどさまざまなことが起こった。そうした中で、個人的には、小学校の免許(幼稚園免許も含まれる)だけでなく、中学校や高等学校の免許も取得したい、自分自身の勉強もしたいという願望を持ち、大学への入学を志すようになった。
 ついに意を決して昭和26年に上京した。上京後は、東京都立川市立第二小学校に勤務した。その一方で、年来の希望を実現するために独学で勉強し、明治大学法学部に合格し入学した。そして、昼は教師として働き、夜は学生として学ぶという生活を続け4年後に中学校と高等学校の社会科の教員免許を取得することができた。
 大学卒業後まもなく、縁あって北原勝平と結婚することになり、北原の工場をともに経営することになった。現在の本館は、その工場の跡地である。
 その後、この武蔵野の地にも都市開発の波が押し寄せ人手不足、騒音などの工場公害の問題なども生じてきて工場経営に転機が訪れた。
 他の仕事をするなら何か人に喜ばれる仕事を―との考えと、教師としての資質を認めていた夫の提案と強力な応援とによって、はからずも経験のない幼児教育に足を踏み入れることになったのである。

 

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幼稚園の創立と「生活療法」の確立

 「心とからだの健やかな子どもを育てたい」
 この、子を産む母の心そのものを幼稚園の教育理念と定めた。この理念を実現するためには、できるだけよい環境で子どもを育てることが必要と考えた。しかし、よい幼稚園をと思えば思うほど、周囲の抵抗も大きかった。教育理念の説明をしてまわるなどして理解を得て昭和
391111日に幼稚園の認可を得ることができた。
 この頃には園舎も完成していたので、翌年4月の正式開園までの間を準備期間として年度の途中であったが多くの子どもたちを受け入れた。
 この準備入園の子どもたちの中に、他の幼稚園を断られた障害を持つ子どもたちがいた。小学校に行くまでに少しでも身のまわりのことが自分でできるように、集団生活に慣れるようにと考えてその場で入園を許可した。それが自閉児との最初の出会いである。
 「みんななかよし すなおなこころ こんきのよさ」を教育目標として、豊かな体験を与えながら子どもを育てる「混合教育」と「生活保育」は展開されていった。
 一方何とか自閉の子をよくしたい、そのためには子どもをよく知ることが大切と思い、自閉の子を昼間だけでなく夜も預かって、母親のように抱いて寝たこともあった。こうして母親の愛情と教育者の情熱で健康な子どもとともに教育することで、体験的に自閉児の特徴を知り、効果的な指導法を見出した。この子どもとの体当たりの指導法の中から生み出したのが、「生活療法」である。
 自閉児でも入園できる幼稚園で、しかも教育効果があるとなると、東幼稚園の教育を求めて全国から自閉児とその親たちが集まってくるようになった。
 その後、多くの子ども達が卒園し自閉児たちも状態がよくなって小学校に進学していった。ところが環境の変化と扱いの違いから在園の頃よりも状態が悪化して幼稚園に戻ってくるというケースが相次いだ。わが子の将来を案ずる親達の「どうか小学校を作ってほしい」という強い希望と教育者としての信念から、親達とともに小学校設立を考えるようになった。

 

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小学校の設立

 小学校の設立を強く訴える親達の熱意が、文部省や大蔵省の関係者の心を動かし昭和515月には小学校の仮認可が下りた。ところが、反対運動に直面したり、建築資金の工面にも頭を痛めた。北原勝平理事長個人の資産や自宅を売り、また親達も団体や企業から寄附金を集めたりなどして建築資金とすることができた。
 武蔵野東小学校は、こうして校舎も完成して昭和524月に誕生した。
 とにかく、子どもたちは豊かに育った。受験という厳しい現実に対し、キヨは子どもたちがよりよい中学校に入れるようにと援助を惜しまなかった。その結果、有名私立中学校に多数の子どもが合格することができた。
 しかし、自らの信条に反して、受験の厳しさにさらされる子どもたちのために中学校を建てたいと考えるようになった。この考えが子どもの希望や親の願いと合致し、中学校を建てることを決意した。

 

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中学校の設立と国際学級の新設

 昭和584月武蔵野東中学校も難産の末に開校した。校舎も未完成のままの開校であったが、希望に満ちていた。当面の授業は、当時の青梅にあった東山荘を活用して24時間の合宿教育を行った。
 開校式は校舎完成を待って9月に、常陸宮両殿下をお迎えして盛大に行われた。
 この頃すでに「生活療法」は、アメリカでも注目されていた。そして日本での成果が高く評価され1980年オハイオ州立ボーリンググリーン大学から名誉博士号を授けられ、また客員教授としてアメリカ・カナダなど各地を講演、これにより海外の反響は年毎に高まっていった。そして学園の教育を求めて海外から入学希望者が多数来校したため国際学級を新設してこれに対応した。
 生活療法は外国の子どもにも有効であった。国際学級に子どもを預けた親達から子どもの成長を聞いた海外の自閉児の親から、入学希望の手紙や問い合わせの電話が絶えなかった。

 

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技能高等専修学校の設立

 常に頭から離れないのは、日本の子どもたちの将来のことであった。自閉児が社会自立するまでまだまだ学園での指導が必要である。できれば自閉児にも将来世の中に出て役に立つ人間になってもらいたい。そうした願いをこめ技能高等専修学校を作ろうと決意したのである。まずに武蔵野市西久保にある幼稚園を移転し、その跡地に作ることを計画し実施に踏みきった。
 技能高等専修学校は昭和615月に開校した。3年後の第一回卒業生の約半数は一般企業へ就職したり専門学校へ進学という形で社会自立することになった。長年の夢であったが、実際にはきわめて困難とされる自閉児の社会自立が緒に付いたことは、何にも増して嬉しいことであった。

 

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ボストン東スクールの開校

 国際学級での指導を通じて、「やはり子どもは自国の文化やことばの中で教育すべきだ。それが子どもにとっても親にとっても幸せにつながることだ。」という信念をもつようになった。それに、「この教育をぜひアメリカの地で」というアメリカの親たちの強い要望とも重なり、アメリカに学校をつくろうと決意したのは本館建設中の頃である。国境をこえた子どもへの愛情が、親たちばかりでなくアメリカの多くの学者、教育関係者、行政に携わる方たちの心を動かすことになった。
 自らも幾度もボストンへ渡って準備を進めた。その結果マサチューセッツ州の認可と全面援助で昭和629月ボストン郊外のレキシントンにボストン東スクールを開校した。寮の設置なども万難を排しての開校であった。
 その後、東スクールは、職員の献身的な努力と保護者の協力や東学園の子どもたちの応援などにもささえられて、驚異的な成果をあげ、世界より注目され高い評価を受けつつある。

 

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夢を与え続けて

 日本とボストンを往復しての校長・園長としての仕事に加え、研究業務、レスリー大学大学院での講義準備などで大活躍の日々であった。
 「生活療法」をあみだし、その成果をさらに国外へ広めた業績により1988年度エイボン女性大賞を受賞したのは10月のことであった。多くの子どもたちと共に歩み続けてきたことが、この時初めて報われた思いであったろう。昭和6416日ボストンから帰国。そして元号が改まって1週間後の平成元年114日未明、昭和と共に生きた劇的な人生に幕が閉じられた。63歳であった。
 北原キヨは、東の子どもたちに、親に、教師に、そして海外の人も含めて多くの人々に、大きな夢を与え続けた希有の教育者であった。

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技能高等専修学校の設立

ボストン東スクールの開校

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