教育センター会報(Heart to Heart)コラムより

自閉症児の子育てから

岩崎 敦子(武蔵野東学園卒業生保護者)

*岩崎様は、武蔵野東学園を卒業された娘さんの子育ての経験をもとにアドバイザリーボードとしてご助言をいただいています。

1.母子の心の繋がりを育てる             (第6号)平成19128日発行

 私の娘は二歳半を過ぎても言葉もしゃべらず、隙をみては家から脱走していました。公園等でやっと見つけた私を見ても、能面のような表情は変わらず、私のことを母親と分かっているのかどうかも怪しいものでした。その頃病院に連れて行くと、自閉症らしいと言われました。そして母親との関係をつけるようにと指導されました。家で一緒に遊ぼうとしてもまったく関心を示さず、途方にくれた私に、娘に水のこだわりがあるのなら水泳教室に入れたらと友人がアドバイスを下さいました。

 早速申し込みに行き状況を説明したところ、娘一人でクラスに入るのは無理だろうから、お母さんと一緒に泳ぐのはどうかと言われました。しかもそのコーチは、自分の昼休み中にプールサイドで見ていてあげると申し出て下さったのです。それから週に1,2回、娘と一緒にプールに入りました。大きなプールには、昼休みなので娘と私だけしかいません。大人用のプールですから、娘は立つこともできず、泳ぎも出来ず、ただ傍にいる私にしがみついてきたのです。

 何回か行くうちに、娘は自分を助けてくれるのはこの人だと私を認めるようになりました。そして水が大好きな娘はプールに入るのが嬉しくて、にこにこしながら私についてくるようになりました。これがきっかけとなって、娘との精神的なつながりを感じられるようになり、本当の子育てを始められるようになりました。娘との心の繋がりが出来てどれ程嬉しかったかと、30年前のことをつい昨日のことのように思い出しながら、あのコーチに心から感謝しています。

 

2.自閉症でも「私はあなたの娘」と伝えてくれる我が子 (第7号)平成2033日発行

 母子の心の繋がりが感じられるようになってから、娘は私の姿がちょっとでも見えないと大泣きをするようになりました。母親冥利に尽きる思いでした。それでも自閉症の娘を理解することはとても困難なことでした。何が出来て何が出来ないのか、どこまで分かっているのか、何をどこまで教えたら良いのか、どんな生活を送れるのか等々。いくら考えても答えは見つからず、教えてくれる人もいませんでした。娘は四歳になっていました。

 ちょうどその頃、主人が海外赴任することになり、私は否応無く娘を連れて二日掛かりの長旅を断行しました。20時間以上も飛行機の中で無事に過ごせた様子、その間慣れないトイレで一度も使えなかったのにお漏らしもしなかった娘を見て、この子は事前の私の話や態度から何かを理解して、自分なりに頑張ったのだと確信しました。「やれば出来るじゃない」と感動しました。

 また二週間のソ連旅行に行った時は、朝から夜まできっちり決められたスケジュールをこなし、飛行機・バス・夜行列車での移動も問題なく、美術館や宮殿の見学も静かに回れた娘に対して、計画性をもった生活こそ合っていると教えられました。やって良いこと悪いことも親の態度で伝えられると感じました。旅行中、娘が楽しんでいる様子までうかがえて本当に嬉しかったものです。

 旅行の後での娘の成長ぶりにも目を見張るものがありました。安全でも単調になりがちな日常よりも、変化のある幅広い経験を積極的に積ませることが重要だと知らされました。 こうして、私は娘自身の様子から様々なことを学んできました。娘は言葉では言い表せないけれど、様々な手段で自分のことを私に教えてくれました。

 伝えようとしていることを見逃すことなく感じ取れるように、常に正面を向いて取り組む姿勢が大切だと思います。母親だからこそ、同じDNAを持っている血の繋がりで直感的に理解できることが多いと感じます。ですから、私はいつも感度を研ぎ澄ませて待っています。娘が今度は何を私に伝えようとしているのかと。

 

3.すべての経験は成長の糧 -無駄な勉強は一つもない-
                                  
(第8号)平成20712日発行

 園や学校に通うようになると、娘にとって新しい経験がどんどん増えます。学習の内容がその時点では無理かと思われることもありました。将来必要なのかと疑念を持つ内容もありました。そうは思っても、自閉症の娘を育てるのに自分の知識経験だけではとても難しいと感じていましたから先生の指導を信じて娘と一緒に頑張りました。5歳の頃、靴紐結びの練習では、紐のない靴を履かせれば良いと思いましたが、就職して現在娘がしている仕事の一部は刺繍糸やリボンを結ぶことなのです。

10までの足し算が出来るようになるのに半年以上掛かりました。小2の時です。家でも家族ぐるみで教えました。使ったノートは何十冊にもなりました。ところが次の引き算の理解には2ヶ月も掛かりませんでした。中学や高校では私が教えるのも難しい内容の数学を勉強させました。現在はそれを覚えてもいないでしょうが、高度な内容まで頑張らせたことが基礎的な算数の理解をしっかり固めたと感じています。正確に数を数えられることが就職の決め手になりました。

 時計を読むのも教えている期間では習得できずデジタル時計を持たせていましたが、何年か後本人がアナログ時計を欲しがる頃には理解できていました。勉強したことを日々の生活の中で自分のものにして生かす力があると実感しました。アルファベットとローマ字や英語の学習は娘の楽しみを広げました。外国に行っても臆することなく外人に話しかけたり街に馴染んで、積極的に楽しみを見つけます。外国映画のビデオや外国語の音楽CDを買ってきて自分でも英語で唄っています。

楽しいことばかりでなく、悲しい場面も敢えて避けることなく経験させました。身近な人や飼い犬の死を体験し、何年経っても悼む気持ちを表わす娘を見て、思いやりのある子に育ったと感動しました。学習したものが直ちに結果が出なくても、そのものを習得できない様子でも、その努力がまったく違う分野で具体的な実力となって現れるのを何度も感じました。どこから空気を入れても風船が丸く膨らむように、どんな経験も娘の内部を充実させていくと信じられるようになりました。

無理だとあきらめるのは親の身勝手だと自戒します。毎日ご飯を食べるように、毎日の勉強は子供の成長に欠かせないものです。少し高度な目標に向けて努力を続けることが大切です。今では自ら進んで新しい経験に挑戦するのを楽しむようになった娘は、34才になってもまだ成長を続けています。

 

4.社会人として自立した我が子 -会社でも家庭でも大きな存在となって
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9平成20128日発行

 在学中に何回かの実習を経験してから、就職先として推薦されたのは手芸のデザインや教習、キットの卸をしている小さな会社でした。数名の女性で構成された有限会社です。当時の親の気持ちとしては、途中で転職は難しいだろうと思いましたのでしっかりした基盤のある所が良いと考えていました。

 それでもこの会社に決めた理由は2つありました。就職しても成長できる環境と指導者である社長の人間性です。19歳の娘が更に成長する環境とは、出来そうな仕事をどしどしやらせて下さる上司と、何事も他の社員と同等に遇して下さる社長との人間関係でした。過度な保護やお客様待遇とは無縁の職場で、もっと早く、言われたとおりに、きちんと最後まで、それは途中で止めてこっちを先に等々の指示をひっきりなしに出されながら、娘は与えられた仕事に全力で取り組まざるを得なかったようです。数人の上司の助手として多様な仕事を与えられるので緊張感や気配りの必要もあります。

 手先の器用さを生かして誰にも負けない仕事の分野を獲得できた頃には、仕事に対する自信と責任感と誇りが育っていました。土曜日にディズニーランドに行く計画をたてていても、金曜日に帰宅してから「会社が忙しいから明日は出勤します」と自分で判断して親をギャフンと言わせたこともあります。勤続15年を経た今、この娘がいるからみんな頑張って会社を継続していると社長はおっしゃいます。この会社で働くことが娘の生きがいになっています。

 親である私たちも既に老齢に達してきました。周りを見ると友人の多くは夫婦二人だけの生活を送っています。ところが我が家にはこの娘がいてくれます。私たちの生活振りや楽しみ方に娘が若い息吹きを吹き込んでくれるのです。12月に入って我が家のベランダにはクリスマスのイルミネーションが輝き、はしごを登るサンタが飾られています。10月はハロウィーンのデコレーションでした。すべて娘の作品です。心が明るく豊かになります。休日には洗濯物を干したりたたんだり、アイロン掛けを一手に引き受けてくれる娘を見ていると、将来は私たちの方が娘に支えられる日がくると感じています。

 さらに34歳になっても心の清純さはそのままで、周囲の人々の心まで洗われていく様子を見るにつけ、本人の社会自立に留まらない影響力の大きさに驚かされます。一緒に暮らしている私たち親にとってばかりでなく、この娘の存在は社会の宝であるとさえ思われてきた最近の娘の様子です。


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